日本の発展を支えた軍艦島 ~時代の先端を歩んだかつての近未来都市~
2015年10月13日
軍艦島は、長崎県の南端である野母半島の海岸から約4kmの海上に浮かぶ周囲1.2kmの端島(はしま)の俗称です。
長崎の東シナ海側の海底には良質の石炭を産出する海底炭田があり多くの島が炭鉱として栄えました。
端島もそのひとつです。
軍艦島の歴史
軍艦島は、1810年(文化7年)に石炭が発見されて採炭が始まりました。
そして、1890年(明治23年)に三菱財閥が買収してから製塩工場の建設や蒸留水機が設置されるとともに相次いで竪坑が開坑されるなど、本格的な開発が始まりました。
1974年(昭和49年)に閉山となるまでの84年間に大量の良質の石炭が産出され日本の産業発展を支えました。
島の周囲を囲むそそり立つ岸壁や竪坑の櫓・煙突の煙によって軍艦のように見えるため軍艦島と呼ばれるようになりました。
2015年には、軍艦島を含む全国23施設が「明治日本の産業革命遺産」としても世界文化遺産に登録されています。
軍艦島の建物
一般的な炭鉱の住宅は木造長屋タイプの炭住(炭鉱住宅)です。
軍艦島にも明治期から大正期にかけては木造の炭住が並んでいました。
しかし、大正5年からは、狭い土地と過密な人口対策として日本初の高層鉄筋コンクリート(RC)造アパートが建築されました。
狭い島内に多くの人が住むために建物を高層化する必要に迫られたのです。
また、1910年(明治43年)には植物の少なさを補うために日本初の屋上庭園も誕生しました。
他にも炭坑のワイヤーロープを鉄筋の代わりに使用した建物や海水や海砂をコンクリートに使用した建物など、現在では考えられない工法の建物もあります。
必要に迫られて新しい試みが次々と行われ、時代の先端をいく近未来都市だったのです。
近未来都市の生活
軍艦島の総面積は63,000㎡です。
そのうち約25,000㎡は炭鉱施設であり、残りの約38,000㎡(おおよそ200m四方の面積)が生活スペースでした。
炭鉱施設・住宅のほか、小中学校・店舗・病院・寺院・映画館・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・スナックなどもあり、島内でほぼ都市機能が完結していました。
最盛期の1960年(昭和35年)には5千人以上が生活しており、島全体の人口密度は83,600人/km²と世界一で、東京特別区の9倍以上でした。
風雨から炭坑を守る高層建築
軍艦島は、周囲を海に囲まれており、台風時に外海に面した建物を襲う波の猛威は相当なものでした。
これに対して様々な防潮装置が考え出されました。
住宅棟群が海に面して建てられ、内側にある鉱業所を波浪から守るための防潮の役割を兼ねていました。
本来人の住む場所は、安全なところと考えるのが基本ですが、軍艦島ではその発想は逆で、住宅棟で仕事場を守るという造りになっていたのです。
そして、住宅棟では、外側の窓を小さくする、共通廊下にするなど様々な防潮のしくみが取り入れられました。
建物の特徴と資料としての価値
初期の建物には木製の欄干や土間、長屋的な構造や露地など、当時の町造りが取り入れられており、西洋のRC建築と日本建築との融合が見られます。
構造がRCにもかかわらず窓枠や手摺は、ほとんどが木製ですが、これは塩害による腐食防止が最大の目的でした。
また玄関には高低差がかなりある土間の作りが採用されていて、扉は木製の引き戸でした。
当時の木造住宅の構造をそのままRC建築に移植したような造りとなっていました。
軍艦島には、このように古い鉄筋コンクリート建造物が取り壊される事無く手付かずのまま残されています。
建築工学の観点から経年劣化などの貴重な資料として注目されています。