平成の保存修理を終えて蘇った姫路城 ~技術伝承のためにも必要な保存修理~ | 建設・設備求人データベース

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平成の保存修理を終えて蘇った姫路城 ~技術伝承のためにも必要な保存修理~

2015年07月24日

平成27年3月、平成の修理工事を終えた姫路城が姿を現しました。

 

姫路城の歴史

姫路城          出典:姫路市「姫路城

 

姫路城は、1346年に赤松貞範によって築城されました。
その後、戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田孝高(如水/官兵衛)や羽柴秀吉が城代の時代に本格的な城郭に拡張されました。

 

当時から姫路は、山陽道上の交通の要衝でした。
そして関ヶ原の戦いの後、池田輝政が城主となり今日のような大規模な城郭へと拡張されました。

 

太平洋戦争時には、天守最上階に焼夷弾が落ちましたが不発弾であったため、焼失を免れました。

 

姫路城は、外壁を白漆喰で塗り固め、さらに屋根瓦の目地にも白漆喰が施工してあります。
翼を広げたシラサギのように見えるため、「白鷺城(はくろじょう、しらさぎじょう)」とも呼ばれます。

 

天守の外観は5重ですが、内部は地下1階と地上6階の7階建てになっています。
世界的にも類のない木造建築であり、平成5年にはユネスコの世界遺産に登録されました。

 

これまでの修理工事

姫路城は江戸時代にもたびたび修理が行われてきました。
しかし、当時の技術では天守の重量に礎石が耐えられず、建物が沈み込んでいました。

 

明治12年から行われた明治の大修理では、大天守地階の支柱補強工事が行われました。
昭和31年からは、昭和の大修理が行われました。
全ての建物を一度解体してから部材を修復し再度組み立て直しています。
礎石を撤去し、新たに鉄筋コンクリート製の強固な基礎構造物が姫山の岩盤上に直接構築され、沈下も補修されました。

 

平成の修理工事

昭和の大修理から約50年が経過し、予想以上に漆喰や木材の劣化が進んだため、平成21年6月から修理工事が始まりました。

 

今回の修理では、瓦の葺き替え・天守の白漆喰の塗り替え・耐震補強が行われました。
修理工事には、全国各地から約1万4,300名の職人が集まりました。

 

屋根修理と壁面修理

屋根修理では、7万5千枚の瓦に番付けしてから外し、反りや歪み、割れなどの検査をした上で使える物は再利用し、再利用ができないものは新しい瓦に取り替えられました。
目地漆喰の塗り直しも行われました。

 

軒平瓦(軒唐草瓦)や軒丸瓦(巴瓦)、そして、鬼瓦等々に歴代の城主の家紋や桐紋などが残されていることが分かりました。

 

壁面修理では、表面の漆喰を塗り直し、軒揚(のきあげ)・破風(はふ)(※1)・懸魚(げぎょ)(※2)は上塗りまたは下地からの修理が行われました。

 

破風(はふ)

※1 破風(はふ)
屋根にある三角形などの造形部分です。


懸魚(げぎょ)

※2 懸魚(げぎょ)
屋根の妻に取り付ける飾で、水に縁のある魚形をしたものです。


天守の外壁は木の枝や竹を組んで作った格子状の骨組みに壁土を何層も重ね塗りし、その表面に漆喰を塗って仕上げています。
漆喰は、防火・耐火に優れた材料で、古くから蔵などによく使われています。姫路城が外部を漆喰で仕上げているのは、鉄砲への備えのためです。

 

天守を覆う素屋根

天守の工事は、天守の上に構築され素屋根の下で行われました。
工事途中で瓦や漆喰を除去した状態の天守を、雨風から保護するためです。
素屋根は鉄骨造で高さは約52mになり、内部には、作業用の足場や床がつくられました。

 

技術伝承としての補修工事の役割

姫路城のような文化財を次の世代に残していくためには、当時からの技術の伝承が欠かせません。

 

そのため、文化庁では伝統的な技術や技能を「選定保存技術」として選定し、それらを保持する個人や団体を認定しています。
このような補修工事の現場は、次世代へ技術を伝える場にもなっているのです。

 

用語解説:漆喰(しっくい)

漆喰は、石灰と糊などを混ぜ合わせた塗壁材です。
壁の上塗りのほか、瓦の目地などにも使われ、塗り手の高い技術が求められます。
今回の補修工事では古文書を元に、一般では使用される機会が減少している消石灰や貝灰、海藻糊、晒しスサなどの材料が用いられました。

 

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